こんにちは! ネジです!
今回は「薬局と薬剤師の過去」がテーマの記事です。
なにやら壮大なテーマとなってしまいましたが、書きたいことは薬局と薬剤師がどのような過去を経験し、現在の状況になっているか、そして、これから先の薬局・薬剤師はどのようなことが求められ、どのような役割を果たしていくかという考察を書いていくつもりです。
それぞれを分けたほうが理解しやすいかなと思い、第13回を過去、第14回を現在、第15回を未来として書いていきますのでお付き合いください。
では、まずは薬剤師の歴史から説明していきたいと思います。
Contents
調剤薬局の始まり
まずは”調剤薬局の始まり“つまり、”医薬分業”についてです。
文字通り、病院と薬局が分かれていることを医薬分業と言います。つまり、医師と薬剤師が別々に仕事をするという意味です。「別々に」とは言うものの今では連携することが前提です。
調剤薬局の始まりを語る上で医薬分業についての歴史的な背景をまずは理解してもらいたいと思います。
医薬分業の始まりは暗殺防止のため!?
そもそも、医薬分業は医師による暗殺を恐れた神聖ローマ帝国の王様 フリードリヒ2世が医師が薬を管理することを禁じたことが始まりと言われています。
フリードリヒ2世は、医師が「これは薬です」と言って毒物を混ぜ、自分を殺すのではないかと考えたのです。
フリードリヒ2世が1240年に医師が処方・調剤することを禁止し、医師が処方、薬剤師が調剤を行うことを法律で決め、このことがヨーロッパでの医薬分業の契機となりました。
それに対して日本では1874年(明治7年)にあるべき姿として「医師は診察し、処方箋を患者に渡し、薬舗主(その時代の薬剤師に相当)が薬を準備すること」としましたが、その時点では薬剤師や薬学教育を受けた専門家はおらず、「薬剤師」の呼称が誕生したのも1889年(明治22年)のことでした。
日本での医薬分業
明治時代に薬剤師という呼称は誕生したものの、日本での医薬分業はうまく進みませんでした。
その背景としては、長年に渡って医師が医療におけるヒエラルキーの頂上にいたことや病院や診療所の経営が”薬の仕入れ値”と”薬の販売価格である薬価”の差額(薬価差益)を収入源の一つとしていたことなどが挙げられます。
そこで、国として医薬分業を進めるため、1974年(昭和49年)の診療報酬改定で医師が発行する処方箋料(医師が処方箋を発行することで得られる報酬)が前年までの60円から500円に引き上げられました。
これにより実態的に医薬分業が進むようになったため、1974年は”分業元年”とも呼ばれます。
“薬漬け医療”の解消
医薬分業のそもそもが「毒殺を回避するため」というのは上述しましたが、近代日本における医薬分業の目的の1つとして”薬漬け医療の解消”があります。
薬を処方する権利がある医師が薬によって多額の利益を出せる環境があれば、不要な薬を処方することで利益を得ようとする医師も現れます。
例えば、以下のような場合です。
・○○という薬の在庫が多く余っている
・△△という薬の使用期限が近付いている
・××という薬の利益率が他の薬よりも良い
このような背景から「Aという薬よりもBという薬の方がこの患者には適する」という場合に本来”B”という薬を使うべきですが、”A”という薬を選択する理由ができてしまうのです。
これに拍車をかけていたのが、昔の医薬品流通の制度です。
昔は製薬メーカーが病院や診療所、薬局などに医薬品を卸す際の価格を決めることができました。医療機関から患者へ渡す際の金額は公定価格である”薬価”以外で渡すことはできませんが、仕入れる際の値段が下がれば”薬価差益(薬価-仕入れ値)”は大きくなり、医療機関の利益にもなり、win-winの関係だったわけです。
また、製薬メーカーの営業担当は売上等のノルマもあるため、多く購入してくれる顧客へは値下げ等もしながら販売数を確保していました。
これは私が年配の薬剤師や医薬品卸の方に聞いた話ですので、全てが本当かどうか真偽は不明ですが、「車のトランクに山積みに薬を入れてきて、(薬の値段だけで)車ごと差し上げます」といった売り方や「薬を1箱買って頂けたらもう1箱つけます」という販売方法が過去にはあったそうです。
今では製薬メーカーが医療機関への卸値を決めることは制度上できなくなり、さらに医療機関側で過度に値下げを要求するようなことができないような制度になっているため、このようなことはありません。
しかし、20~30年前はこのような医薬品流通制度であったため、過剰在庫・期限切迫の医薬品が発生し、それが本来は必要としないような患者に使用されるということがあったようです。
そして、病院・診療所だけでなく、薬局もそのような流通制度に助けられ、門前医療機関の医師に嫌われさえしなければ”どんぶり勘定”でも経営が成り立っていた時代がありました。
医薬分業の進捗
日本薬剤師会のホームページに医薬分業進捗状況というページがあります。そこから取り出した分業率のデータが以下のようになります。
平成元年(1989年)から平成30年(2018年)の期間で医薬分業は11.3%から74%まで進みました。ただ、これは病院や診療所が処方箋を発行して薬局で調剤をしている割合です。
劇的に分業が進んだことが理解して頂けるかと思います。先ほど説明したどんぶり勘定で成り立つ薬局の経営や医薬分業が急激に進んだことから2000年代ごろから”薬局バブル”という言葉も生まれました。
確かに医薬分業が進み、それに伴い調剤薬局は数を増やし、利益を得てきました。
しかし、この形は本来望んでいた医薬分業の形とは少し違うものです。
“本当の意味”での医薬分業
本当の意味での医薬分業は「医師と薬剤師がそれぞれの立場から考え、患者により良い医療を提供すること」です。まさに、フリードリヒ2世が望んだ形が医薬分業の理想形と言えます。
そのためには医師と薬剤師は対等な関係であるべきですが、病院や診療所から発行された処方箋がないと利益にならない薬局の立場上の問題もあり、薬局(薬剤師)が病院(医師)に対して意見の言いにくい環境でした。
過去には薬局が医師の機嫌を損ねたせいで、処方箋の発行を中止や別な薬局を近隣に誘致されることで経営が成り立たなくなり、廃業になるようなケースがあったという話も聞いています。
このような医師と薬剤師間で今でも一部見受けられる問題です。
その背景には今でも続いていることではありますが、不勉強な薬剤師が一定数いて、それでも業務ができてしまっていることも”本当の意味での医薬分業”が進まない理由だと私は考えています。
このあたりはまだ別な機会に記事にしたいと思います。
薬の情報が必要とされなかった時代?
最近では”根拠に基づいた医療”(Evidence Based Medicine=EBM)という言葉を旗印に、医師や薬剤師はより良い医療を提供するための努力をしています。
しかし、逆説的に言えば「今までは根拠の無い医療を提供していた」とも取れます。そして過去の医療が「医師という専門家の経験則」が重要視されていたことでもあります。
そのような状態では、仮に薬剤師がある事柄について医師よりも客観的に正しい判断をしていたとしてもその意見が実際の医療の現場で採用されることがないことも想像していただけるかと思います。
大学の講義で「昔は患者に薬について調べられると面倒だから薬の名前や副作用等は伝えないようにと医師から言われていた時代がある」などと言った話も聞いたことがあります。
また、今では当たり前に行っている「小児の体重に合わせた薬の用量の計算」なども過去には行っていなかったなどと言った話も薬剤師になってから知りました。
「薬の情報が必要とされなかった時代」というと語弊はありますが、インターネットなどの情報源がない時代にはそのようなことが医療に限らずあったのかもしれません。
医療の発展と健康寿命
また、これは私見ですが、健康寿命の延長には薬物療法の適正化が必要不可欠なのではないかと考えています。
現在、日本人は男性で約9年、女性で約12年半の不健康な期間があります。
私はポリファーマシーなどの問題はこの不健康期間を長くする要因であり、これから人生100年と呼ばれる時代を迎える中で医療が果たす役割でもあると考えています。
まとめ
では、今回のまとめです。
・医薬分業の始まりには医師のみの意見を恐れた王様の判断があった
・日本での医薬分業には利益を巡る問題が背景にあった
・薬剤師は職能をあまり求められていない時代を歩んできた
今回は薬剤師の過去、これまでの歩みについての記事でした。
どちらかというと暗い過去のように感じるものだったと思いますが、利益としては現在よりも過去の調剤薬局の方が得ていたのも事実です。
しかし、職能としての医薬品情報の提供などはあまり求められていない時代でもありました。
このような状況が過去から現在に渡ってどのように変わってきたかを次回は書く予定です
では、次回もよろしくお願いします!